自分史について

河野初江の手がけた自分史作品をご紹介します。

自分史

『彷徨-昭和20年~30年、我が十代の告白』

著者 酒井透
協力 河野初江

サポート内容
企画・構成、添削・推敲、執筆補助、校正、編集、印刷・出版コーディネート、全体管理
作成期間 10カ月
制作・出版 河出書房
頁数 216ページ
形式 上製本(自費出版)
表紙画 酒井純子
配布先 家族と友人、国会図書館及び郷土の図書館 等
価格 2400円(税別)

自分史「彷徨」の推敲確認の様子

自分史「彷徨」の表紙デザイン検討会

自分史『彷徨』ができるまで

どうしても書きたいことがあるんです。
あの日、あの時こそ、私が本当に生きた瞬間でした。80歳を超えた今、やはりその体験だけは書いておかねば…

そう言って酒井さんは、これまでに書き溜めた何十枚もの手書きの原稿を私の前に積み上げた。

何度も書き直し読み直したのか、鉛筆の文字がこすれて薄くなっている。

すぐにでも完成しそうですね、と私。

いいえ、このままではダメなんです。あまりに個人的なことをたくさん書いてしまったから…。匿名か、仮名にすればいいでしょうか、と酒井さん。

聞けば酒井さんは、十代だった昭和20年代に、これこそ日本を救うと信じ、共産党の細胞活動に身を投じたという。
山村工作隊として村々を駆け巡り、そして恋もした。その体験を赤裸々に綴って人に見せたところ、「このまま本にするなどもってのほか」と言われたのだという。

貴重な戦後の体験を埋もれさせてはいけない。
匿名や仮名にせずとも、きっと良い作品になる!
そう確信した私は、一緒にもういちど原稿を見直しましょう、と申し出た。

こうして週に一度、酒井邸を訪れ、二人でテーブルをはさんで向き合い、原稿を見直す作業が始まりました。
エピソードを見直し、表現を変えたり、新たな記述を加えたり…。

そうすることで、次第に主題がより明確になり、伝えたいことがどんどん鮮明になっていきました。

見事な原稿に仕上がった、と感じた私は河出書房(河出岩夫代表)に出版をお願いしました。

表紙画はそれまでの推敲作業をじっと見守り、応援してくださった夫人の純子さんにお願いしました。

本作りの楽しみの一つは、表紙のデザイン選びです。
持参したデザインの中から酒井さんと純子さんは、迷わず「一生懸命だったあの頃らしく、エッジの効いた表紙がいいね」といちばん華やかな装幀を選びました。

河野と河出氏で、知恵を絞った本書の帯には
「握り締めたる拳を卓にたたきて
ヴ・ナロード!人民の中へ!
血潮たぎらせ 走り抜けた 情熱の曝露」

の文字が躍ります。

「情熱の曝露、いいじゃないか!」
酒井さん、夫人をみやって最高の笑み。

こうして酒井さんの自分史『彷徨』は完成しました。


『漆黒の海-母船式鮭鱒漁業船団航海記』

著者 今田晴三
編集者 河野初江
制作協力 亀書房
頁数 本文244ページ
サイズ 四六判 上製本

海の男の貴重な記録

昭和62年の師走、30年の永きにわたって鮭鱒漁業の母船として活躍した仁洋丸が解体されることになり、著者は解体に向けての最後の出航を見送り、消えゆく船の姿を目に焼き付けます。本書は、その今田さんが、若き日にこの仁洋丸に乗り込み、洋上に浮かぶ工場の工場長として苦闘した日々を書き綴っています。

出航すれば1年は戻れないという仕事。独行船がめいっぱい操業し、大量に処理できないほどの魚が母船に運びこまれてきます。量を誤れば、母船はたちまち沈没する!その危険と隣り合わせで母船はぎりぎりまで魚を受け入れ、解体処理をします。その判断はすべて工場長に委ねられており、受け入れる、と決めたあとは歯をくい縛って処理解体を敢行するのみ、という壮絶な戦いが待っています。

戦後、このようにして豊富な蛋白源を私たちにもたらしてくれた遠洋漁業も、やがては200マイル専管水域の設定によって衰退していき、今やそこで働いた人々の記憶の中にしか存在しなくなりました。今田さんは、その貴重な体験を、出航から帰港まで、日々記録していたかのように克明に書いておられましたので、構成は確かでしたが、雹(ひょう)や霰(あられ)など、気候を表す難しい漢字や地名、寄港する港の名前がたくさん出てきて、ルビ無しではいささか読みにくいと感じました。また、改行少なくびっしり書いておられたので、そのあたりを中心に手直しをしましたところ、ご家族にもたいへん読みやすくなったと喜んで頂きました。

65歳の定年を機に執筆し、50冊印刷しましたが、その後、ご夫婦で海外旅行にいくたび親しい友人ができ、名刺がわりにお渡ししているうちに、今ではもう全く手元に無くなってしまったとのこと。「こんなに長生きするのなら、その後に出会う人のためにもう少し作っておけば良かった」と、70代となった今嬉しい感想を述べておられます。

題名の漆黒の海は、「北の海は黒く、人を寄せ付けない冷厳さを有しているが、時には慈母のように優しかった」という忘れえぬ光景からきています。北の海に魅せられた海の男の息づかいが伝わってくる貴重な仕事の記録であり、体験記です。


自叙伝

『かもめが跳んだ日』

著者・発行者 江副浩正
編集・制作  朝日新聞出版サービス
発売 朝日新聞社
協力  河野初江

サポート内容
構成、原稿の添削・推敲、追加執筆補助
協力期間 12か月
頁数 296頁
形式 上製本(自費出版)
価格 1800円

創業者の想いを伝える

30代半ばで河野はリクルートを退職した。辞意を伝えたとき、リクルートの創業者である江副さんは時間を使って丁寧に引き止めてくださった。しみじみありがたかった。この恩は忘れない、会社を辞めても何かあったら呼ばれる人間になろうと思った。

その日は意外に早くやってきた。リクルート事件のさなか、「リクルートへの手紙」を残したい、ということで呼ばれた。取材テープを回した。けれども、どのテープも江副さんの声を拾うことはできなかった。わずかに聞こえるのは何度もただ社員に詫びる言葉だった。

それから10年以上経て、もう一度江副さんから「今度こそ完成させる。手伝って」と声がかかった。江副さんの自伝は、大きく二つに分かれていた。前半は生い立ちからリクルート事件まで。後半は、江副さんが自身の保有株をダイエーに譲渡する顛末である。この後半部分が、まとまらないで残っていた。

江副さんの求めに応じて私は後半の原稿の執筆をサポートした。自伝を作ろうと思い立ってから10年以上もの歳月を経て、2003年江副さんの自伝『かもめが翔んだ日』は完成し、朝日新聞社から出版された。

ダイエーに株を譲渡するということは、リクルートが江副さんのリクルートではなくなることを意味していた。けれども当時、誰も江副さんの心情に思いを寄せる余裕がなかった。社員の多くが、なぜそうしないとリクルートが生き残れないのか理解していなかった。

リクルート株を手放したその日、江副さんは浜離宮庭園に車を走らせ、かもめが群れをなして飛来するのを見つめ、ただひとりリクルートに別れを告げる。タイトルの『かもめが翔んだ日』はここからきている。

その後、私は再び江副さんに声をかけられて、『リクルート事件・江副浩正の真実』(中央公論社)の本づくりを手伝った。

『リクルート事件・江副浩正の真実』は、密室での過酷な取り調べと、それをもとに作られる検察官調書に重きを置く司法制度への問題提起の書である。記述に間違いがあってはならない。1989年~1990年の新聞報道を読み込み、記述と照合しながら、江副さんとともに原稿を完成させる作業をした。

『リクルート事件・江副浩正の真実』は2009年、執行猶予が終わるのを待って中央公論新社から刊行された。初公判から20年以上かけて結実した江副さん渾身の作である。


次の世代に、自叙伝を残すことができるリーダーは幸せである。
あとに続く人がいることを、知っているのだから。

リーダーの自叙伝を読むことができる次の世代は幸せである。
先人が汗して得た知恵と体験を手にできるのだから。


グラフィック自分史

『あなたがいたからできたこと』書道家 遠藤夕幻 作品集

企画 遠藤夕幻 officemigi
編集 林建次 高橋実
デザイン 高橋実
写真・文 林建次
A4判オールカラー 112ページ

「これまでの半生を描いた作品集を作りたいんです」

それが始まりだった。
若き書家、遠藤夕幻と出会って5年は経っていたであろうか。当時から鼻っ柱が強く「俺が一番だ」というような、若者が持ち得るいい意味での生意気さがあった。

夕幻は書道道具を積んだバイクで日本一周の旅に出て、日本の各地で真っ向から人と向き合い、ときに励まされ、あるいはへし折られ、世襲のある世界に属することなく己の書で生きていくことを絶対の使命として、七顚八起しながら書を描き続けた。そして自身の書の基礎となる「無添加書道」に辿り着く。
そして、母の癌の発病とともに_実家の小岩に戻り、闘病する母とふたりだけの生活が始まる。母の命と向き合いながら生まれていった作品たち。
私はその節目で偶然にも夕幻が作品を描く姿を撮っていた。あるイベントで母が亡くなる前に書いた想い。そして亡くなった母への言葉。夕幻は母の一周忌にあたる8月26日に個展を開催する計画を立てていた。それと同時に作品集を創りたいとのことだった。

夕幻のこれまでのすべて。
なぜ書道だったのか、どこから影響されたのか、幼いころの家庭環境、日本一周のこと、無添加書道とは。母の命と向き合った1年半から生み出されてきた作品の背景。それらを掘り起こし、ひとつひとつを振り返るながらふたりで並走していく日々が始まる。そこから生まれてくるあらたな物語。
そしてこの作品集のタイトルとなる書を、意味のある日に意味のある場所で、書くことになる。

「あたながいたからできたこと」

単なる書家の作品という枠にとどまらず、ひとりの若者の向こう見ずな生き方と、その成長、そして消えゆく命と向き合った家族の物語。
半年間、身を削るような想いで創り上げた。夕幻と共に並走することで、写真と文のまったく新しいドキュメントの手法を創り上ることができたように思う。夕幻と真っ向から向き合った作品集。
(文・林建次)


グラフィック自分史

『蒼き魂の躍動』駒沢大学アメリカンフットボール部
2012年ドキュメント

上製本
編集 林建次 高橋実
デザイン 高橋実
写真・文 林建次
B5判 オールカラー 144ページ

たとえば80対1、という対峙

例えばボクサーのように1対1という関係で撮影していくこと。これは寄り添っていくという意味で対象と深くコミットすることは可能だ。それが複数人いても問題はない。
だが、部員、マネージャー総勢80人を超えるドキュメントをたったひとりでコミットして1冊の本にすることは果たして可能なのだろうか?
しかもリングとは違い、彼らのフィールドは練習でも試合でも果てしなく広い。ありきたりなアルバムではなくて、これまでにない青春群像を描いて欲しいという依頼だった。

80対1というこれまでに経験したことのない対象と一気に向き合う。
私はフールドの外で望遠レンズを構えて撮ろうなどとは考えなかった。
ボクサーたちと同じく、その息遣いが分かる距離で撮影すること。80人が散らばるフィールドに堂々と入って至近距離で撮っていく。誰だ誰だかは分からないが、目に付いた奴から容赦なくシャッターを切っていった。突っ走っていくとことのすれすれだったり、方で息をして立ち止まっている彼らに50センチまで接近して接写した。
我ながら無茶苦茶だといっていい。しかし、これは私がこの距離で撮るということを認知させることと、「外からではなく精神的にも中に入っていきますよ」という意味だった。だから気を抜いているようだったら「その間抜けな姿も撮っちまうぞ」という、ある種の緊張も持たせることだった。
撮られてる、観られてる、ということで気が抜けない、あるいはモチベーションが上がるといった要素。これはマンネリしてしまうチームにあたらな空気を持たせる監督の意図もあった。

80対1のエネルギーは、凄まじい覚悟を持って取り組まなければ当然負けてしまう。彼らとともにフールドを必死で駆け回っていくうちに、私はチーム内の空気の一部になっていった。
そうして5月から12月まで彼らと並走した。駒沢は2部優勝し、1部の入れ替え戦で無念の敗退。泣き崩れる4年生たちをほぼ同時に全員一気に撮り下ろした。これが可能になったのは偶然というよりも、あきらかに呼び寄せたと思う。ずっとある緊張状態を維持することで導かれて撮らせてらえるようなことは度々あるものだ。

このドキュメントの物語は私が誘導していった要素もある。インタビューしていく中で、主将が思い悩んでいた時期がある。その時に私は確かこんなようなことを敢えて投げかけた。

「確かに勝てるチームにする意識も大事だが、縁の下の仲間たち、試合に出れない仲間たちもいる。そんな彼らに何かを与えるのも主将の大事な仕事かもしれない」

そして彼は最後の試合に行動に移す。
かつて二年生の時にハードヒットによって脳出血した同期がいた。生活に問題なく回復したが、選手として退かなければならなくなった。その同期はスタッフとしてチームをサポートする側に回り、その献身的な働きは誰もが認める存在になっていた。
その同期がかつて選手としてにつけていた背番号は「16」だった。主将は最後の試合となる1部入れ替え戦という大舞台で、「16」と刻まれたシールを選手全員のヘルメットに付けさせるように指示を出した。「16」が入ったヘルメットを被り、チームメイトが最後のフィールドへ駆け出していく。これまでのサポートの感謝と同時に「お前も共に闘うの選手なのだ」という無言のメッセージ。
同期は堪えきれず涙したのはいうまでもない。
(文・林建次)


社史

株式会社セイタン
90周年記念誌

公益財団法人テルモ科学技術振興財団
25周年記念誌

ドラパス株式会社
100年史